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「仏典をよむ」末木文美士著を読む!

今年の3月に、インド仏跡参拝に出掛けた時、持っていった本があります034.gif

それは・・・

仏典をよむ末木文美士
「仏典をよむ」末木文美士著を読む!_d0214907_843159.jpg

この本は経典から、祖師の著書まで幅広く取り上げた一冊ですw( ̄△ ̄;)wおおっ!

内容を見てみると・・・

『遊行経』
『無量寿経』
『法華経』
『般若心経』

『摩訶止観』天台大師智顗 著
『碧巌録』圜悟 著
『日本霊異記』景戒 著
『山家学生式』最澄 著
『即身成仏義』空海 著
『教行信証』親鸞 著
『正法眼蔵』道元 著
『立正安国論』日蓮 著
『妙貞問答』ハビアン 著

と、有名な経典のみならず、日本仏教の祖師の主な著書を網羅しています( ̄□ ̄;)!!

これだけは言わして下さいっ!

良いとこドリップ!!

言ってみたかった(*´ェ`*)ポッ

この本は、至る所に赤線のチェックを入れてしまうほど、勉強になりました♪

例えば、経典の成立からその思想まで書かれており、

時には辛口でズバッと言い切っておられるところもありますヽ(ヽ>ω<)ヒイィィィ!!

これは各祖師の著書のところでもそうで、呼んでいて痛快です049.gif

これをすべてこのブログで書くと膨大な量になりますので、

浄土門の教えだけをピックアップすると・・・。

まず法然上人が書かれた『選択集』について

念仏が本当に諸行よりも勝れているかというと、なかなか納得できない。浄土往生を求めるにしても念仏以外の行だって良いはずだ。どうして念仏しか認めないのか。そもそも浄土往生を目指すことが、本当に仏教の最終目的といえるのか。それならば悟りを求めることはどうなってしまうのか。目的とされる浄土とは一体どういうところなのか。こうした疑問について「選択集」は十分に答えていない。法然は、念仏往生の根拠を弥陀の十八願に求める。ところが実は往生の方法を述べた願は別にもある。それは第十九願と第二十願である。第十九願では、菩提心をおこした衆生が、様々な功徳を積めば往生できるとして、念仏以外の諸行の往生が認められている。また第二十願では、念仏などによって徳を積み、それによって往生できると誓われている。自力の念仏などの功徳であるが、このように諸行の往生も弥陀の願で認められるのである。だが「選択集」ではそのことはまったく触れられていない。正直いってかなり強引である。

とあり、その疑問に答えたのが親鸞上人の『教行信証』であると進みます。

しかし説くところの絶対他力に対しても、

如来蔵という考え方は、自己内にある如来蔵の展開と言うことで完結しているから、他者を必要としない。しかし、悟りの心がまったく内在せず、外からしか与えられないとすれば、それを与える他者の力はきわめて大きなものであり、他者は私たちの内部に入り込み、中から私たちを変えてしまうことになる。けれどもその時、「私」という存在はどうなるのだろうか。煩悩が本当に「私」なのだろうか。煩悩もまた「私」の制御がきかず、「私」に理不尽に襲いかかってくる他者ではないのか。そうとすれば「私」というのは、阿弥陀仏から与えられた信心と、どこからともなく湧き出てくる理不尽な煩悩との闘いの場ということなのだろうか。そこには「私」が自らなしうることは何もなく、「私」はこの闘いの傍観者でしかないのであろうか。もしそこで何か主体的にしようとしたら、それは自力の行として否定されなければならない。それでは矛盾する。

と、他力の矛盾をズバッ!!ヽ(ヽ>ω<)ヒイィィィ!!

称名念仏をすることで、阿弥陀如来のおられる西方極楽浄土へ往生すると浄土門は教えますが、

その極楽浄土へ行ってどうするのかも追求されます∑( ̄Д ̄;)なぬぅっ!!

つまりは、阿弥陀仏や浄土が自己の外に実在すると認めるわけですが、

現代的に見ても、西方遙か彼方に極楽浄土が実在するなどとは信じにくい。また法然説に従って、念仏して往生して、その後どうなるのか。その先、理想状態である涅槃にどのように達するのか。答えがまったくない。

と一刀両断ヽ(ヽ>ω<)ヒイィィィ!!

これに対して親鸞上人は、「環相廻向」という教えをもって答えとされておりますが、

これに対しても・・・

環相廻向は、自らの利益ではなく、他者の為に活動することであるが、基本的に往生してから後のことである。それならば、現世での他者の利益の為の活動は成り立たないのであろうか。往生するまでは、ひたすら自分のためばかり、というのも、ちょっとおかしい感じがする。

逆に、そうではなく、現世でも環相廻向できるということにたいしては、

ならば、それは自力の善行になるのではないか。自分で努力しないで、人の為に何かするというのは不可能であろう。とすれば、ここでもまた、自力の行を認めるのか、という問題が生ずることになる。

う~ん。手厳しい!

そして誰でも簡単にできると説く称名念仏ですが、意外に難しいことを指摘。

親鸞でさえ『教行信証』の三願転入の部分で、
ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく、万行諸善の仮門(十九願)を出でて、永く雙樹林下の往生を離る。善本徳本の真門(二十願)に廻入して、偏に、難思往生の心を発しき。
 然るに今、特(まこと)に、方便の真門(二十願)を出でて、選択の願海(十八願)に転入せり。速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲(おも)ふ。果遂の誓、良に由あるかな。 ここに久しく願海(十八願)に入りて、深く仏恩を知れり。
 至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭(ひろ)うて、つねに不可思議の徳海を称念す。いよいよ斯を喜愛し、特に斯を頂戴するなり
とあるように、自力諸行→自力念仏→他力念仏とようやくその境地に達したのが分かる。親鸞にとっても他力の境地に到達するのはそれほど難しかったのである。そうだとすれば、他の人だってそれほど簡単に到達できるはずがない。ならば真実の浄土に至って、涅槃に入る人は本当にわずかであって、大部分の人はせいぜい極楽の隅っこにも行けるかどうか疑わしい。

とありました・・・。いやはや圧巻ですな・・・。

インドに出現されたお釈迦様。

その教えが世界に広がり、日本に伝わります。

そう思うと、根本の地インドで、各種経典から、各祖師の著書までを学べたことは

とても良かったと思っています。

ちなみに、この本を呼んでいてちょうど『立正安国論』にさしかかったときが、インドのブッダガヤでした。

お釈迦様がお悟りになった地で、お釈迦様の正しい教えを信仰しなければならない!

と主張された安国論を、ブッダガヤで読めたことは大変感慨深いものがありました(。-人-。)

以上、「仏典をよむ」でした♪

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by yamasina-gokokuji | 2012-05-31 09:52 | コラム

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